NBAポスターコラム727:ブルズ王朝を支えたもう一人の主役、その秘密とは…。

NBAポスターコラム
727-スコッティ・ピッペン

727-スコッティ・ピッペン

セントラルアーカンソー大からNBAへ

スコッティ・ピッペンは、セントラルアーカンソー大学からNBAに進んだ唯一の選手だ。1987年、彼はシカゴ・ブルズにドラフト指名されるという快挙を成し遂げた。当時のセントラルアーカンソー大はバスケットボールの名門校ではなかったため、NBA選手を輩出するなど夢のまた夢だった。しかし、ピッペンの身体能力と可能性を見抜いたスカウト陣が、彼をリーグへと引き上げた。

ルーキーイヤーの苦闘

ブルズ入りしたピッペンは、最初の年こそ控え選手としてのスタートだった。彼はブラッド・セラーズの控えに回され、全試合でベンチからの起用に甘んじた。その年のスタッツは、決して派手なものではなかった。平均出場時間は少なく、得点やリバウンドでも目立つ数字を残せていない。

それでも彼の長い腕を活かしたディフェンスとオールラウンドなプレイは、徐々にチーム内外で注目を集めるようになった。特にディフェンス面での貢献は見逃せなかった。相手のエースをマークする能力、スティールを狙う嗅覚、そしてトランジションへの速さは新人離れしたものだった。

ポストシーズンでのブレイク

ピッペンの真価が発揮されたのは、ルーキーイヤーのプレイオフだった。彼はシーズン中に控えだった立場から這い上がり、ポストシーズンではブラッド・セラーズから先発の座を奪取した。6試合でスターターを務めた彼のパフォーマンスは、チームにとって新たな可能性を示した。

特にディフェンスでの存在感は、相手チームの攻撃を大いに苦しめた。リバウンドやスティールだけでなく、相手のパスコースを遮断する動きや、ヘルプディフェンスのタイミングも完璧だった。また、オフェンスでも彼のプレイメイキング能力が光り、ジョーダン以外にボールを運べる選手として評価を高めた。

ジョーダンとの日々

ピッペンの成長の裏には、マイケル・ジョーダンとの厳しいトレーニングがあった。ジョーダンは早い段階でピッペンの潜在能力を見抜き、自ら彼の指導に当たった。毎日のように行われた1on1は、単なる練習ではなかった。そこには、ジョーダンの持つ勝利への執念と、ピッペンがそのプレッシャーを乗り越えようとする必死さが詰まっていた。

ジョーダンのトレーニングは厳しいことで知られている。時には容赦ない言葉を浴びせられることもあった。しかし、それこそがピッペンに必要な刺激だった。才能はあっても、当時のピッペンはまだ精神的にタフではなかった。その弱さを克服するために、ジョーダンは彼を鍛え抜いたのだ。

ピッペン自身もその努力を惜しまなかった。練習が終わった後も居残りでシュート練習を繰り返し、1対1のディフェンススキルを磨いた。この日々の積み重ねが、後に彼を史上最高のNo.2と呼ばれる存在へと押し上げていった。

チームにおける役割の進化

ピッペンは、ブルズでのキャリアを通じて、徐々にチーム内での役割を進化させた。ルーキーイヤーこそ控えの立場だったが、その後はディフェンスの要、プレイメイカー、さらには時にスコアラーとしての顔を持つようになった。

ジョーダンがチームの絶対的エースであったことは言うまでもないが、ピッペンの存在がブルズの成功に不可欠であったのは間違いない。彼がコートに立つことで、ジョーダンがオフェンスに専念できる環境が整った。ピッペンはディフェンスでチームを支え、時にはジョーダンをも休ませることができる多才さを持っていた。

終わりに

ピッペンのキャリアは、努力と成長の物語だ。無名の大学からNBA入りし、最初は控え選手として苦しみながらも、持ち前の努力と才能でチームの中心選手へと成長した。その裏には、ジョーダンという最高の師匠との日々があった。

彼がルーキーイヤーに見せた成長とプレイオフでのブレイクは、ブルズ王朝の幕開けを象徴する瞬間でもあった。ピッペンの物語は、どんな困難な状況からでも這い上がることができるという希望を与えてくれる。

・NBAポスター絵画展がコチラ↓



・手持ちのお金を守りながら着実に増やす投資術がコチラ↓

資産1000万円達成の8つのコツがコチラ↓
初心者向け!資産1000万円達成術8ステップ簡単解説

資産1000万円達成シンプル投資術がコチラ↓
資産1000万円を達成した私のシンプル投資法

資産1000万円達成のおススメ書籍がコチラ↓
資産1000万達成の為に読むべき本

コメント