720-マイケル・ジョーダン
「エア・ジョーダン」:バスケットボールを超えた存在
マイケル・ジョーダン、通称「エア・ジョーダン」。
この名前を聞いた瞬間、バスケットボールファンなら誰もが思い描くのは、優雅なスラムダンクや、華麗なフェイダウェイ、そして試合を決めるクラッチ・ショットだ。ジョーダンのキャリアは、ただのスポーツ選手の枠を超え、世界中の人々の関心を集め、NBAを一躍グローバルなスポーツに押し上げた。 特に1990年代のシカゴ・ブルズ時代は、6度のNBAチャンピオンに輝き、その存在感は絶対的だった。
ジョーダンはシューティングガードとしてキャリアをスタートし、攻撃の中心としてその類まれな得点力を発揮してきた。 キャリア終盤のワシントン・ウィザーズ時代にはスモールフォワードとしてもプレーした。
誰も止められない「1on1」
ジョーダンのキャリアを語るうえで、彼の得点力に触れないわけにはいかない。彼はキャリア平均得点30.1点というNBA史上最高の数字を残し、特に1986-87シーズンから1997-98シーズンまでの12シーズン中、引退していた1994、95シーズンを除く10シーズンで得点王に輝くという偉業を成し遂げた。
この時期のジョーダンは、1on1で無敵と恐れられていた。 どんなディフェンダーが付こうと、驚異的な身体能力とテクニックで確実にポイントを重ねていた。 ドライブ、ジャンプショット、3Pと、多彩なオフェンスのオプションと、その中に織り交ぜられるクロスオーバーやフェイダウェイといったスキル、そして類まれな身体能力が生み出す優雅かつ豪快なスラムダンク。誰も彼を完全に抑えることはできなかった。ジョーダンはNBAで「止められない選手」という称号を与えられた数少ない選手の一人だ。
栄華を極めた:第1期ブルズ時代
マジック&バードが活躍した80年代が終わり、90年代はブルズ王朝到来の時代である。
1992年開催のバルセロナ・オリンピックで誕生した初代ドリームチームが活躍し、NBA人気がアメリカ国内から世界に羽ばたいた10年でもあった。そんな1990年代のNBAは、シカゴ・ブルズを抜きには語れない。
ジョーダンがシカゴ・ブルズに84年に入団してから7年が経過し、スコッティ・ピッペンやホーレス・グラントの成長により、プレーオフで3年連続で敗退したアイザイア・トーマス率いるデトロイト・ピストンズの壁を超え、そして91年ファイナルではマジック・ジョンソンのレイカーズを敗っての初優勝。
そこから92年はポートランド・トレイルブレイザーズのクライド・ドレクスラー(SG)、93年はフェニックス・サンズで、この年のMVPであり親友のチャールズ・バークレー(PF)をそれぞれ敗り、マジックもラリー・バードも成し得なかった3連覇を達成する。ジョーダンの全盛期と重なった第1期ブルズ時代だ。
引退とMLB挑戦
だが1993年、ジョーダンは突然の引退を発表した。 当時31歳、彼の絶頂期とも言えるタイミングでの引退は、多くのファンを驚かせた。 その理由の一つには、父親の悲劇的な死が…。しかし、ジョーダンはただ引退するだけではなく、新たな挑戦として野球の世界に飛び込んだ。彼はMLB(メジャーリーグベースボール)のシカゴ・ホワイトソックスのの2A、バーミングハム・バロンズに入団し、プロ野球選手としてのキャリアを歩むこととなる。
成績としてはMLBでの成功は難しかったが、ジョーダンの挑戦する姿勢は多くの人々に感銘を与えた。バスケットボールで頂点に立ちながらも、未知の分野に飛び込み、トップレベルで挑戦する姿は、ジョーダンの人間性を強く象徴している。
伝説の帰還:第2期ブルズ時代
1995年、ジョーダンはバスケットボールの世界に「I’m back.」という短いメッセージで復帰を宣言した。この復帰の知らせは世界中に衝撃を与え、ブルズも再びNBAの頂点に立つ準備が整った。復帰後、ジョーダンはかつてのようなパフォーマンスを見せ、1996年から1998年にかけて再び3連覇を達成。
特に1996年のシーズンは、72勝10敗というNBA史上最多勝利記録(後にゴールデンステート・ウォリアーズに破られるまで)を打ち立て、圧倒的な強さを見せつけた。彼のリーダーシップとクラッチパフォーマンスは、どの試合でも際立ち、特に1998年の最後のチャンピオンシップ、ユタ・ジャズとのNBAファイナル第6戦での勝負を決めたクラッチ・ショットが有名だ。残りわずか数秒、ジョーダンは絶妙なクロスオーバーでディフェンスを振り切り、ジャンプショットを決め、ブルズに6度目のタイトルをもたらした。このシーンは、彼のキャリアの中でも特に象徴的な瞬間として語り継がれている。
最後の挑戦:ウィザーズ時代
ジョーダンは1999年に再び引退を発表し、1999年~2001年にはウィザーズのフロントに社長として承認するなど、新たな挑戦に立ち向かっていた。が、3年経ち、選手として再びコートに立つことを決意した。 このとき、彼はスモールフォワードとしてプレーし、かつての得点力や身体能力は陰りを見せてはいたものの、バスケットIQや経験で若手を引っ張り、鼓舞するシーンも多かった。
ウィザーズ時代のジョーダンはブルズ時代のようにチャンピオンシップを獲得することはなかった。そして2003年に再び引退を決意し、ついに彼の現役生活に終止符が打たれた。
「ジョーダン・ブランド」の影響
ジョーダンの影響は、バスケットボール界だけに留まらない。彼の背番号「23」は世界中で知られ、ナイキとのコラボレーションで生まれた「エア・ジョーダン」シリーズのシューズは、ファッション界でも大人気を博し、スポーツ選手がブランドを持ち、広範囲に影響力を持つという現象は、ジョーダンが先駆者となった。それ以降ナイキは毎年、新しいモデルを発表し続け、今日に至るまで「エア・ジョーダン」シリーズは絶大な人気を誇っている。
終わりなき影響
ジョーダンがバスケットボールを去ってから20年以上が経つが、その影響は今も続いている。ジョーダンの「勝利への執念」と「限界を超える努力」は、バスケットボールだけでなく、次世代のアスリートと、スポーツ全体に大きな影響を与えた。コービー・ブライアントが「マイケル・ジョーダン抜きは自分はなかった」と話したように、彼の後を追う世代はみな、ジョーダンの存在を意識し、その影響を受けながら、自らのキャリアに落とし込んでいる。
殿堂入りと遺産
2009年、ジョーダンはバスケットボール殿堂入りを果たした。 これは彼のキャリアがいかに偉大であったかを示す象徴的な出来事だ。スピーチでは自身のメンタリティが成功に導いたことを強調した。
ジョーダンの遺産は、バスケットボール界に留まらず、文化、ファッション、そしてビジネスの世界まで認められている。彼がいなくては、NBAは今ほどのグローバルな人気を誇るリーグにはなっていないだろう。ジョーダンの功績は永遠に語り継がれ、彼の名前はスポーツ史に燦然と輝き続ける。
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