NBAポスターコラム715:成功と失敗の狭間で、「3J’s」が辿った意外な結末とは…。

NBAポスターコラム
715-ジェイソン・キッド

715-ジェイソン・キッド

1. ジェイソン・キッドとグラント・ヒル、同時に栄光をつかんだ1994年

1994年のNBAドラフトは、歴史に残る一つの年だった。この年、2位でダラス・マーベリックスに指名されたのが、未来のNBA殿堂入り選手であるジェイソン・キッド。3位でデトロイト・ピストンズに指名されたのが、グラント・ヒル。この二人は、即座にリーグの注目を集めることとなり、ルーキーシーズンでその才能を証明する。

キッドはマブスに入団後、すぐに卓越したコートビジョンとゲームメイキングで頭角を現し、チームの司令塔として活躍。対するグラント・ヒルは、その万能性とスムーズなプレーで瞬く間にスターへと成長した。この二人は、リーグの将来を担う存在として並び称され、1995年には共に新人王(ルーキー・オブ・ザ・イヤー)に選ばれるという異例の快挙を成し遂げた。


2. ダラスの「3J’s」:夢のトリオの誕生

キッドが入団した当時のダラス・マーベリックスは、過去数年に渡りリーグの底辺に位置するチームだった。だが、キッドとジャマール・マッシュバーン、そしてジム・ジャクソンという3人の若いスター選手を擁し、再建を図る計画が進行していた。この3人はすぐに「3J’s」と呼ばれ、リーグ内外からの期待が高まった。

ジャマール・マッシュバーンは1993年にドラフトで指名され、すでに得点力のあるウィングとして評価されていた。ジム・ジャクソンも1992年のドラフトで指名されて以来、スコアリングとリーダーシップを兼ね備えた選手として成長していた。そして、ジェイソン・キッドが司令塔としてこの2人をまとめることで、マブスは一気に強豪チームへと生まれ変わるかに見えた。


3. 期待された成功、見えないケミストリー

「3J’s」に対する期待は大きかった。キッドのパスセンス、ジャクソンのオールラウンドなスキル、そしてマッシュバーンの得点能力が組み合わされば、ダラスは西地区での勢力図を塗り替える可能性があった。しかし、現実はそう簡単ではなかった。

シーズン序盤は多少の希望を感じさせるものの、徐々にチーム内でのケミストリーが問題視されるようになった。キッドは後に「当時はみんな若く、まだプロとしての成熟度が足りなかった」と振り返っているが、その言葉通り、若い3人は個々の才能をチーム全体の力に変える方法を見いだせなかった。

NBAは単純に才能が集まれば成功するわけではない。特に若い選手たちは、役割分担やリーダーシップの明確化、互いにサポートし合う姿勢が必要だが、マブスの「3J’s」はその点で課題を抱えていた。特にキッドは、パスファーストのポイントガードとしてプレーするスタイルを確立していたものの、ジャクソンとマッシュバーンはともにボールを持ってスコアリングするタイプで、ボールシェアが上手くいかなかった。


4. 噂される不仲と「3J’s」の崩壊

「3J’s」はその可能性を最後まで発揮できなかった。個々の成績はそれなりだったが、チームとしての成績は期待を大きく下回り、シーズンごとに失望が積み重なる。メディアやファンの間では、3人の間に亀裂が生じているという噂が広まり、特にジム・ジャクソンとジェイソン・キッドの不仲が大きな話題となった。

これに拍車をかけたのが、当時のNBAシーンを彩った「トニ・ブラクストン事件」だ。この事件は、シンガーのトニ・ブラクストンがキッドではなくジャクソンとデートしたことがきっかけで2人の間に軋轢が生じた、というゴシップであり、これがチーム内の雰囲気をさらに悪化させたと言われている。

もちろん、この種の噂がどこまで本当かは分からないが、少なくともチーム内に何らかの問題があったことは確かだ。シーズンを通じて、マブスは大きな進展を見せず、結果的に「3J’s」は解体の道をたどることになる。


5. 「3J’s」崩壊後のマブスとキッドのその後

1996年、ジェイソン・キッドはトレードでダラスを去り、フェニックス・サンズへ移籍することとなる。これで「3J’s」の夢は完全に終わりを迎えた。マッシュバーンとジャクソンもその後にそれぞれ移籍し、マブスは再び再建の道を歩むことになった。

キッドの移籍後、彼はサンズやその後のニュージャージー・ネッツでプレーオフ進出を果たし、キャリアを順調に進めていく。彼はネッツで2度のNBAファイナル進出を果たし、最終的にダラス・マーベリックスに戻り、2011年にはついにNBAチャンピオンの座を手に入れることになる。彼のキャリアは終盤に向かうにつれてさらに輝きを増し、リーグ史に残る名ガードとしてその名を刻むことになった。


6. 若さゆえの未成熟、しかし未来への布石

「3J’s」の時代を振り返ると、ジェイソン・キッドが言ったように、当時の彼らはまだ若く、プロとしての成熟が足りなかったのは間違いない。才能はあったが、それをチームとして一つにまとめる術を知らなかった。しかし、この時期の経験は、キッドにとって重要な教訓となったことも確かだろう。

彼は後年、より冷静で成熟したリーダーへと成長し、最終的には自らの手でマブスに優勝をもたらした。この若き日の苦い経験が、彼のキャリアを形成する一部であったことは間違いない。マブスにとって「3J’s」の時代は期待外れであったかもしれないが、その後のキッドの成功は、この時期が単なる失敗ではなかったことを証明している。


7. 結論:「3J’s」とキッドの教訓

「3J’s」の崩壊は、NBAにおけるチームケミストリーの重要性を再認識させる出来事だった。才能が揃っているだけでは勝てない。選手たちが互いを理解し、協力し合うことが必要不可欠だ。キッド、ジャクソン、マッシュバーンの3人は、それぞれが優れた選手だったが、チームとしての成功はつかめなかった。

しかし、この失敗がキッドにとって無駄ではなかったことは、彼のキャリアが証明している。若い頃の失敗を糧にし、彼は最終的にリーグを代表するリーダーとして成長した。そして2011年、かつて夢破れたダラスで再び栄光を手にしたキッドの姿は、まさに「再生」の象徴だったと言えるだろう。

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