529-スティーブ・フランシス
スティーブ・フランシス:輝かしい個人技と孤独なキャリア
トレードとデビュー
フランシスのNBAデビューは一筋縄ではいかなかった。1999年のドラフトでバンクーバー・グリズリーズに指名されるも、入団を拒否。最終的には3チーム計11人を巻き込む大型トレードの末にロケッツでデビューを果たした。このトレード劇も彼のキャリアを象徴するエピソードの一つだ。
新人王の栄光
スティーブ・フランシスは、その圧倒的な個人技でNBAファンを魅了した選手だった。1999年のドラフトで全体2位に指名され、ヒューストン・ロケッツでデビューを飾った。デビューシーズンでは見事に新人王を受賞し、その後も3度のオールスター出場を果たすなど、その実力と人気は本物だった。
フランチャイズの時代
ロケッツでのフランシスは「スティービー・フランチャイズ」と呼ばれ、その名の通りチームの顔となった。ボールハンドリングに優れ、変幻自在のレッグスルーやクロスオーバーでディフェンダーを翻弄。ダブルクラッチやダンクもお手の物で、そのプレースタイルは見る者を魅了した。
ダンクコンテストと身体能力
2000年のダンクコンテストではビンス・カーターに次ぐ2位に輝いた。垂直跳びではカーターよりも5センチ高い記録を持ち、その驚異的なジャンプ力は多くのファンを驚かせた。
自己中心的なプレースタイルとパートナーとの不和
だがフランシスのキャリアを語る上で欠かせないのが、彼の自己中心的なプレースタイルだ。このプレースタイルが災いし、チームメイトとのフィットが難しく、勝利を掴むことができなかった。オーランド・マジック時代、グラント・ヒルとのコンビはわずか1シーズン半で解体。ニューヨーク・ニックスではステフォン・マーブリーとのデュオがまさに水と油で、チームの低迷に拍車をかけてしまった。
ヤオ・ミンとの友情とサポート
一方で、ロケッツ時代に共闘したヤオ・ミンとは、勝利こそ掴めなかったが、深い友情を築いた。ヤオはフランシスについて、「彼は良き友人でありチームメイト。マジックにトレードされた時は凄く寂しかった」と語っている。フランシスは公私ともにヤオを支え、中国からNBAに挑戦したばかりのヤオにとって重要な存在だった。
大舞台での機会
しかし、フランシスのキャリアで残念だったのはプレーオフでの活躍がほとんどなかったこと。プレーオフ出場はわずか1回のみで、大舞台でその個人技を披露する機会が少なかった。
スティーブ・フランシスは、圧倒的な個人技とカリスマ性でNBAに輝かしい足跡を残したが、チームとしての成功には恵まれなかった。しかし、そのプレースタイルとエネルギーは今もなお多くのファンの記憶に刻まれている。
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