無名からスターへ:驚異の成長
ラトレル・スプリーウェルは、NBA入り当初は無名だったが、瞬く間にその才能を開花させた選手だ。スプリーウェルの武器は、類まれな運動能力と無尽蔵のスタミナ。これらを駆使して、攻守両面でチームを牽引した。
2年目の快挙:オールスター、オールNBA1stチーム選出
スプリーウェルの快進撃は2年目にピークを迎える。彼はこのシーズン、オールスターに選出されるだけでなく、オールNBA1stチーム、オールディフェンシブ2ndチームにも名を連ねた。この快挙は、スプリーウェルがいかに優れた選手であったかを如実に物語っている。
キャリアの転機:衝撃の事件
そんなスプリーウェルのウォリアーズでのキャリアは、予期せぬ形で終焉を迎える。1997年12月1日、練習中に口論が発展し、当時の指揮官PJ・カーリシモHCの首を絞める暴行事件を起こしてしまう。この前代未聞の事件により、スプリーウェルは68試合の出場停止処分を受け、さらにコンバースとの契約も解除された。
ニックスでの再起:ミラクル・ニックスの立役者
出場停止処分を受けたスプリーウェルは、ウォリアーズに復帰することなく、翌年の開幕前にニューヨーク・ニックスへと放出された。その翌シーズンはロックアウトにより短縮され、ニックスはかろうじて8位でプレーオフに進出。ここでスプリーウェルは「ミラクル・ニックス」の原動力となり、チームをファイナルまで導いた。
アメリカン・ドリームの具現者
スプリーウェルは、「一部の奴らは俺のことをスポーツ界のならず者と言う。だが俺は言う、俺こそアメリカン・ドリームの具現者であると、、、」。これはシューズメーカー「AND1」のCMで最後に言っていたフレーズだ。このCM出演は多くの批判を浴びた。スプリーウェル自身も、このCMが周囲に「負」の側面で大きな反響を与えることは容易に想像できたであろう。それでも出演を決めた背景には、己の信じた道を貫き、いつか再び失った信頼を取り戻すという強い決意があったのだ。
ファイナル進出と新生ニックスの顔
スプリーウェルが再び脚光を浴びたのは、復帰した1999年のプレーオフだった。第8シードながらもファイナル進出を果たし、持ち前のアグレッシブなプレーでチームに活力を与えた。このポストシーズンの活躍で、翌年からは衰えの目立つパトリック・ユーイングに代わり、チームの主導権を握り始めた。
もう1人のエースであるアラン・ヒューストンが感情を表に出さないタイプであるのに対し、スプリーウェルは感情をストレートに表す選手だった。これにより、自然と彼は新生・ニックスの顔として扱われるようになった。そして長年ニックスの象徴だったユーイングの放出で、名実ともにチームの中心選手となったのである。
引退後も相変わらず、、、
ラトレル・スプリーウェルは、その才能とパフォーマンスで多くのファンを魅了した一方で、数々のトラブルによってキャリアに傷をつけた選手でもある。それでもスプリーウェルの栄光とニックスでのキャリアは、NBAの歴史に残る一つの物語として語り継がれていくだろう。
追伸、NBA引退後の06年に今度は女性の首を絞め、13年の大晦日には迷惑行為で逮捕と暴れん坊ぶりは健在だ。
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