NBAドラフトで当たり年の1つである2003年組の台頭が目立ってきた2000年代中盤のNBA。

2000年代中盤、リーグでも中堅となったコービー・ブライアントとティム・ダンカンとビンス・カーター。

そしてチームのエースとなり、リーグの顔として認知されてきたころのレブロン・ジェームズ、カーメロ・アンソニー。

そしてドゥエイン・ウェイドは豊作の2003年ドラフト組の中で一番速く王者にたどり着いた。

それはNBA新時代を象徴する新たなスターの誕生だった。

ウェイドはシカゴ郊外の出身である。

9歳のとき(9年)、NBAファイナルでジョーダンのブルズがマジックのレイカーズを破って初優勝を遂げるシーンを見て、バスケットにのめり込むようになった。

父親がガレージにフープを取り付け、父親と、2人の義理の兄と、毎日のように2on2をプレーしたそうだ。

ジョーダンのようになりたい――― それが夢だった。

だが高校時代は、それほど有名な選手ではなかった。

マクドナルドのオールアメリカンに選ばれることもなかったし、誘ってくれた大学もマーケット大、イリノイ州立大、デポール大と地元に近いところだけである。

そのなかからマーケット大を選んでいる。

2003年のドラフトはレブロン・ジェームスとカーメロ・アンソニーが目立ち、 1巡5位のウェイドに注目する人は決して多くはなかった。

だが、実力で自らの存在感を高めていく。

1年目が公式戦平均16.2得点、FG成功率46.5%、2年目が24.1得点、FG成功率47.8%、プレーオフでも活躍し、人気も上がっていく。

3年目、公式戦27.2得点、FG成功率49.5%で、 プレーオフを勝ち上がり、ファイナルMVPに輝いた。

03年ドラフト組の出世頭となり、同時にNBAの世代交代を印象付けた。

またコートを離れてもセンスの良さを感じさせる。

お洒落なジャケットやスーツに身を包み、『GQ』誌は「NBAのベストドレッサー」に選んでいる。

読書が大好きで、映画になった『プライドと偏見』は愛読書。

子供たちにも本を読むことを熱心に勧めている。

チャリティ活動にも熱心で年収の10%を教会に寄付していた。

そんなソフトな部分もある彼だが、勝負事になると、ジョーダンのように負けず嫌いだ。

実際、2006NBAファイナルでダラス相手に第1戦を落とした後、ウェイドはある新聞記事を見つけた。

そこには「ヒートはマーベリックスの相手としては物足りない」と書かれていた。

それがウェイドの闘志に火をつけたという。

「誰が書いたとは言わない。でもあれが刺激になったのは確かだね。実はその記事は、今も持っているんだよ」。

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