120-田臥勇太
あの頃の能代工業を思い出して
無敵の能代工業と田臥勇太
90年代後半から2000年初頭にかけて、能代工業高校は「無敵」と言われた存在だった。3年連続高校三冠――インターハイ、国体、ウィンターカップをすべて制覇するという偉業を達成したのは、今思い返しても異常なほどの支配力だ。
そのチームを率いたのが、のちにNBAに挑戦することになる田臥勇太。身長173cmというサイズで、世界最高峰リーグを夢見る日本人少年が、圧倒的な存在感を放っていた。
能代のバスケはただ勝つだけじゃなく、観る者に「未来」を見せてくれた。田臥が見せた速攻、視野の広さ、走るセンターを要求するスピードバスケ。あのスタイルは当時の高校生としてはあまりにも先鋭的で、まさに別次元だった。
センターが走るチームスタイル
能代工業の最大の特徴は「センターも走る」ことだった。当時の日本バスケでは、センターといえばゴール下に張り付く存在が主流だった。しかし能代では、ビッグマンも全力で走り、ガードがそこに合わせる。
田臥が前を走るセンターにアシストを出し、次々に得点が決まる。観客から見れば、「これが高校バスケなのか」と目を疑うような攻撃の連続。勝敗だけじゃなく「バスケの概念」を変えてしまったチームだった。
スラムダンクとDEAR BOYSのモデル
能代工業を振り返ると、漫画の世界とシンクロしているのに気づく。井上雄彦の『SLAM DUNK』に登場する王者・山王工業。八神ひろきの『DEAR BOYS』に出てくる天童寺高校。どちらも「成熟した完成度の高いチーム」として描かれているが、そのモデルとして能代工業が重なって見える。
作品に出てくる選手たちの落ち着きや余裕、プレーの精度。田臥を中心とした能代の実際の姿と重ねると、まるで漫画が現実をトレースしているように感じられる。
成熟した高校生たち
能代の選手たちはただ身体能力が高いだけじゃなかった。プレーの選択や試合運びの冷静さ、チーム全体の完成度。普通の高校生チームなら波があって当然だが、能代はどんな試合でも「大人びている」と感じさせた。
これはまさに山王工業や天童寺と同じ。高校生でありながら、大学や社会人に匹敵する完成度を見せていたからこそ、全国のライバルから恐れられ、憧れられた。
日本人NBA選手が生まれるまで
あの頃、田臥がNBAに挑戦するなんて夢物語だった。世界最強のリーグに、日本人が出場するなんて誰も現実的に想像できていなかった。だが田臥は2004年、ついにサンズのユニフォームを着て公式戦に出場する。
その姿を見て、「日本人でもNBAでプレーできる」という扉が開かれた。能代工業から続く挑戦の物語が、NBAのコートで現実になった瞬間だった。
八村、渡邊、河村、富永へと続く道
田臥が切り拓いた道は、確かに次の世代に繋がっている。ワシントン・ウィザーズからNBA入りした八村塁。ブルックリン・ネッツやサンズでプレーした渡邊雄太。日本代表で司令塔を務め、NBAサマーリーグにも挑んだ河村勇輝。そしてネブラスカ大からNBAを本気で狙う富永啓晴。
今の日本バスケファンにとって、NBAは「遠い夢」じゃなく「毎朝ニュースで確認できる日常」になった。選手を応援するためにNBAを観る人が増え、子どもたちが「自分もNBAに行けるかもしれない」と本気で思えるようになった。
パイオニアへの感謝
田臥勇太がいなければ、ここまでの道は繋がらなかった。能代工業で全国を圧倒し、日本代表として戦い、アメリカに渡り、NBAの舞台に立った。彼の存在がなければ、八村や渡邊の挑戦も、河村や富永の夢も、もっと遠いものになっていただろう。
日本バスケにとって田臥は単なる名選手ではなく、「道を示したパイオニア」だ。NBAを目指す若者たちにとって、彼が残した足跡は今も灯台のように輝いている。
総括
能代工業が見せた完成度の高いバスケ。田臥勇太が切り拓いたNBAへの道。その流れの先に八村塁や渡邊雄太がいて、さらに河村勇輝や富永啓晴が続こうとしている。
あの無敵の能代を思い出すたびに、今の日本バスケがどれほど恵まれているかを実感する。そして、そのきっかけを作った田臥勇太という存在への感謝を、改めて噛み締める、、、。
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