46-トレイシー・マグレディ
トレイシー・マグレディとコービー・ブライアント──二人の天才がすれ違った夜
ストリートの快楽と、フィルムルームの狂気
1990年代後半から2000年代にかけて、NBAには「ネクスト・ジョーダン」と呼ばれる存在が何人も現れた。ペニー・ハーダウェイ、グラント・ヒル、ビンス・カーター、そしてこの二人──トレイシー・マグレディとコービー・ブライアントもその筆頭だった。
当時、まだ若手だった彼らは、ロサンゼルスのとある夜に一緒にいた。パーティー好きのマグレディが「さあ、遊びに行こうぜ」と誘ったそのとき、コービーはなんと「俺はジョーダンのテープを観る」と断った。ナイトライフに身を委ねたい天才と、ただひたすら頂点だけを見ていた狂気の求道者。このエピソードは、ふたりの価値観の違い、そしてその後のキャリアを決定づける象徴的な瞬間だった。
マグレディという「純粋な才能」
トレイシー・マグレディは間違いなく天賦の才に恵まれた選手だった。203cmの身長に、ガードのようなハンドリングと視野、爆発力を秘めたスコアリング能力を併せ持つ。
2002-03シーズンにはオーランド・マジックで平均32.1得点を記録して得点王に。翌年も28.0得点で連覇を達成した。当時のマジックは、グラント・ヒルが怪我で戦列を離れており、実質的にマグレディがすべてを背負っていた。「得点しなきゃ勝てない」──その環境で、彼は誰よりも得点することでチームを生かす方法を選んだ。
シュートエリアは広く、フットワークもスムーズで、何よりプレッシャーを感じさせない空中姿勢が美しかった。NBA全体を見渡しても、あれほど滑らかで力みのないモーションで得点できる選手はほとんどいなかった。
コービーという「不屈の執念」
一方のコービーはどうだったか。彼もまた高校から直接NBA入りし、若くしてスポットライトを浴びた選手だったが、マグレディと違い、すぐにチームのエースにはならなかった。最初の数年はシャックという絶対的存在の陰に隠れ、そして「勝たせてもらっている選手」としての評価を受けていた。
だが、コービーはその役割に甘んじることなく、あらゆる角度から自分を研磨した。ジョーダンのプレーを研究するのは日課。空手の映像を見てフットワークを改良し、ヨガで柔軟性を高め、練習後のフィルムルームでも誰より長く残る。コービーの「練習の狂気」は、ただの都市伝説ではない。
この練習の鬼が本格的にエースになったのは2003-04シーズン以降。シャックとの確執が激化し、別の道を歩み始めた頃だ。実質的に「自分のチーム」になってからのコービーは、2005-06に35.4得点、2006-07に31.6得点を記録し、2度の得点王を獲得。シューティングの質、ゲームコントロール、フィジカルの使い方──全てを自らの手で進化させていった。
マグレディの「勝てないキャリア」
マグレディが得点王を取っていた時期、チームは勝てていなかった。オーランド・マジック時代は、プレイオフで1回戦すら突破できず、ヒューストン・ロケッツに移籍しても怪我に泣かされた。
最大の不運は、ヤオ・ミンとのタッグが完成しそうなタイミングで、どちらかが常に故障していたこと。ロケッツが22連勝を記録したとき、マグレディは中心選手ではあったものの、その後のプレイオフで故障離脱。結局、キャリアで1度もプレイオフシリーズ勝利を経験することなく、ピークを終えてしまった。
つまりマグレディのキャリアは、「最も美しくて、最も勝てなかった選手」として語られることが多い。技術的には申し分なく、観客を魅了するには十分すぎるポテンシャルを持っていた。それでも「勝者」に届かなかった。
コービーが「勝てる男」になった理由
逆にコービーは、「勝者」になった。シャックとともに3連覇し、その後はガソルやオドム、フィッシャーらを引き連れて2度の優勝。コービーがリーダーとして頂点に立ったことで、シャックの存在が評価の陰に隠れていたという人間も、ようやくコービー自身の価値を認めざるを得なかった。
なぜコービーは勝てたのか。それは「自分を追い込み続けたから」だ。才能だけでなく、勝利の方程式を理解しようとした。必要ならパスも出すし、守備にも命をかける。味方を叱咤し、敵を分析する。勝つために「何でもやる」ことを選んだ。
若き日の「すれ違い」がもたらした未来
マグレディがナイトライフに出かけたいと思った夜、コービーはジョーダンのテープを見ていた。この選択の積み重ねが、やがて二人の運命を分けたのかもしれない。
もちろん、マグレディにだって努力はあった。怠けていたわけではない。だが「狂気的なまでの執念」と呼べるレベルには、至らなかったかもしれない。コービーが求めていたのは「完成された技術」ではなく、「勝者になる方法」だった。
そしてその執念が、得点王以上の「伝説」を築いた。
終わりに
もしコービーがマグレディのように早くからエースだったら?きっと得点王の回数はもっと増えていただろう。だがそれ以上に、コービーは「得点王より優勝」を選んだ選手だった。
ふたりは同時代を彩った稀代のスコアラー。しかし、人生を懸けた選択の違いが、NBAの歴史に異なる物語を刻むことになった。
選ばれたのは、夜の街ではなく、フィルムルームだったのかもしれない。
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