55得点の爆発でほぼ独力でサンズを撃破したマイケル・ジョーダン。
1993NBAファイナルの第4戦が始まったとき、舞台は整っていたと言えるだろう。 ディフェンディング・チャンピオンのシカゴ・ブルズは、フェニックスで最初の2ゲームを制し、シリーズの成績を2勝1敗とリードしていた。しかし、だれもがマイケル・ジョーダンを見ていたのである。ファンはそのジョーダンに対して、サンズのケビン・ジョンソンが第3戦でいいプレイをしていたと感じていた。同じことは、イースタン・カンファ レンス・ファイナルでのニューヨークとのシリーズでもあった。このときもニックスのガードのジョン・スタークスは、MJを相手にいいプレイをしており、マイケルはその次のゲームで一気に爆発、54得点をあげている。だが、これはNBAファイナルだ。それまでにファイナルのゲームで50点以上を得点したプレイヤーはわずか4人しかいない。レイカーズのエルジン・ベイラーは1962年にボストン・セルティックスに敗れたゲームで、 大量61点をあげている。ウォリアーズのリック・バリーは1967年、フィラデルフィア・76ersに勝ったゲームで55得点。また、レイカーズではもう一人、『ミスター・クラッチ”ことジェリー・ウエストが1969年、ボストン・セルティックスとの第1戦に勝利した際、53点をあげている。残る一人は、セントルイス・ホークスのボブ・ペティット。1958年、ボストン・セルティックスとの第7戦で50得点を記録していた。だが、乗っているジョーダンは第ークォー ターに11得点。第2クォーターの最初のころまでに連続16点をあげていた。MJはインサイドで2本のシュートを決めるが、チャールズ・バークリーがボールをスティールしてスラムダンクを見舞う。マイケルはそのお返し とばかりに、ダンク・シュートをたたきつける。さらに、彼はポールが指先からバスケットに転がり落ちるようなシュートを入れ、2本のフリースローを成功させた。続いて、アウトサイドに出ると、うしろに下がり気味に跳んでジャンプ・シュートを決める。ジョン・パクソンのシュートでジョーダンの連続得 点が途切れたが、その前に2本のフリースロ ーとジャンプ・シュート1本が入る。そのすぐあと、マイケルはダニー・エインジの頭越しにモンスター・ダンクを見舞った。
1クォーター22点は、ファイナルの記録に わずか3点足りないだけだった。記録の25点はアイザイア・トーマスが90年にレイカーズと戦ったときに作ったものだ。しかし、これでサンズが崩れたわけではなかった。サー・ チャールズも最後まで気力を失わずに戦っていた。そして、22点、12リバウンド、10アシストのトリプル・ダブルをマークしていた。「このゲームで、私はチームを背負って立とうとしていた」とはゲーム後のマイケル。 「大切な得点が必要なとき、私がその得点を入れた。それがこのチームでの私の役目だ」大事な場面の中でも、最も大事な場面はゲームの終盤にやってきた。ブルズの102対94のリードが残り3分33秒で徐々に減っていき、 残り1分、サンズが106対104の2点差に詰める。 ここで、チャールズ・バークリーはスティールを成功させたが、すぐにB・J・アームストロングにボールを奪い返されてしまった。 時間は刻々となくなっていく。残りわずか13.3秒、マイケルは気合を入れて14フィートの距離からジャンプ・シュートを放った。ネットに触れただけでボールはバスケットの中に吸い込まれていった。108対104、ブルズが4点リード。そして、チャールズ・バークリーがファウルをとられた。ガッズポーズを見せるマイケルのそばで、バークリーはフロアにうずくまっていた。
マイケルはフリースローを決めた。スコア は109対104。最終的なスコア111対104で、ブルズの勝利だった。ジョーダンは結局55得点。「今夜の私たちの勝利は、たまたまマイケル ・ジョーダンによってもたらされただけだ」冷静なフィル・ジャクソンはメディアに話していた。「他のプレイヤーは今夜、どうもシュートするのが嫌だったみたいだね」
実際、ブルズで2番目の得点をあげたのは スコッティ・ピペンで、彼は14本中7本を決め、14得点に終わっている。ブルズがやすやすと勝利をあげるにはジョーダンの55点の1点1点が必要だったのである。そして、ブルズは第6戦の勝利で、NBA史上3チーム目の3連覇を成し遂げたのである。
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