コービー・ブライアント「8」から「24」へ──新たな章の始まり
シャックとの決別、そして孤独な戦いへ
2004年の夏、ロサンゼルス・レイカーズは大きな転換期を迎えた。シャキール・オニールがマイアミ・ヒートへとトレードされ、フィル・ジャクソンも一時的にチームを去ることになった。これにより、コービー・ブライアントは名実ともにレイカーズの中心選手となったが、それは同時に、彼が孤独な戦いを強いられることを意味していた。
2004-05シーズンは、チームとしても個人としても厳しいシーズンとなった。レイカーズはプレーオフ進出を逃し、コービー自身も「リーダー」としての新たな役割に苦戦した。かつてのチームメイトだったベテラン選手たちは去り、若手主体のチームで勝ち続けることは簡単ではなかった。
変革のとき──背番号「24」への変更
2005-06シーズンを迎えるにあたり、フィル・ジャクソンが再びレイカーズのヘッドコーチに復帰した。トライアングル・オフェンスの再導入とともに、コービーに求められたのは、単なる得点王ではなくチームを引っ張る「リーダー」としての役割だった。
このシーズン、コービーは自身のキャリアの中でも最高のパフォーマンスを見せた。81得点ゲームや平均35.4得点の圧倒的なスタッツを残したが、それでもチームはプレーオフのファーストラウンドで敗退。そんな中、彼は新たな決断を下す──背番号の変更だ。
コービーは2006-07シーズンから、キャリア当初から背負っていた「8」を捨て、「24」を選んだ。その理由についてはさまざまな憶測が飛び交ったが、本人はシンプルに「新しい章の始まりだから」と語った。
「8」の時代──若き才能の爆発
1996年にNBA入りしたコービーは、高校時代に使用していた「8」を選んだ。デビュー当初はシャックという絶対的な存在がいたため、チームの中心とは言えなかったが、持ち前の努力と情熱で急速に成長。2000年代初頭には、シャックとのコンビでレイカーズを3連覇へ導いた。
しかし、チーム内での確執、そして2004年のシャックの移籍を経て、「8」の時代は終わりを迎えた。個人としては素晴らしい成績を残していたが、チームとしての成功が伴わないことにコービー自身もフラストレーションを感じていた。
「24」の時代──真のリーダーへ
2006-07シーズンから「24」に変更したコービーは、まるで新たな選手のようだった。これまでの「個人としての成功」ではなく、「チームを勝たせるリーダー」としての姿勢を強く意識するようになったのだ。
彼はかつて、「トンネルを抜けた先は、トンネルの始まりよりずっと明るいはずだから」と語った。まさに、その言葉どおりだった。トレード要求やチームの再建期を乗り越えたコービーは、2007-08シーズンにMVPを受賞し、2008-09シーズンには念願の4度目の優勝を果たす。
2009年の優勝──シャック不在の証明
「シャックがいなければ勝てない」と言われ続けたコービーにとって、2009年のNBAファイナルは特別な意味を持っていた。オーランド・マジックを破り、自身初のファイナルMVPを獲得。これは、彼にとって「自分ひとりでチームを勝たせた」という証明だった。
コービーは優勝後、「ついにこの瞬間を迎えた」と語り、これまでの苦労が報われたことを噛みしめた。
2010年の優勝──最大のライバルとの死闘
しかし、コービーの旅は終わらなかった。翌2010年、レイカーズは再びNBAファイナルへ進出し、最大のライバルであるボストン・セルティックスと対戦。2008年のリベンジを果たすべく、コービーは鬼のような執念を見せた。
第7戦までもつれ込んだ死闘の末、レイカーズが勝利。コービーは再びファイナルMVPを受賞し、5度目の優勝を手にした。
「24」としての遺産
「24」を背負ったコービーは、若き日の「8」とは違う選手だった。ただの得点マシンではなく、チームを勝たせるリーダーとなり、仲間を成長させることを重視する選手になった。
彼のキャリア後半には、アキレス腱断裂という大怪我や、年齢による衰えとの戦いもあったが、それでも彼は最後の試合で60得点を記録し、有終の美を飾った。
コービーの背番号変更は単なる数字の問題ではなく、彼のキャリアと人生における大きな転換点だった。そして「24」としての彼の姿勢が、多くの選手たちに影響を与え続けていることは間違いない。
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