田臥勇太、NBAの扉を叩き続けた先に見えたものは、、、。

田臥勇太とNBAへの挑戦 〜挫折と挑戦の軌跡〜

能代工業時代 〜日本中に名を轟かせた少年〜

田臥勇太の名前が全国区になったのは、能代工業高校での活躍があったからだ。圧倒的なスピードと創造性、そして冷静なゲームメイクで、高校バスケット界を席巻した。全国大会ではチームを勝利に導き、「天才PG(ポイントガード)」としてその名を知らしめた。

しかし、日本の高校バスケットで頂点を極めても、彼の視線はすでにその先に向いていた。目指すは世界最高峰のNBA。日本人がほとんど挑戦すらしてこなかった舞台に、田臥は自ら飛び込んでいった。

フープサミット 〜世界の扉に触れた18歳〜

1999年春、ナイキ主催の「フープサミット」に招待され、フロリダ州オーランドへと旅立った。この大会は、世界中の若き才能が集まり、アメリカのトップ高校生たちと対戦する舞台だ。

しかし、そこにいたのは未来のNBAスター予備軍ばかり。アメリカ選抜には後にNBAのオールスター選手となるジェイソン・リチャードソン、ダリウス・マイルズらが名を連ねていた。彼らのフィジカル、スキル、試合運びのスピードは、田臥にとって未知のレベルだった。

さらに当時の田臥は英語が話せず、周囲とのコミュニケーションすら困難だった。「扉にほんの少し近づいた」と感じることはできても、その先の道はまだまだ険しいものだった。

NCAA挑戦 〜夢を砕く2年間の試練〜

田臥はNBAへの道として、アメリカの大学バスケットボール(NCAA)に挑戦することを決意。選んだのはブリンガムヤング大学ハワイ校(BYUハワイ)。

だが、ここで彼を待っていたのは、思い描いていたバスケット人生とはかけ離れたものだった。留学1年目は、NCAAの出場資格を得るための学業に追われ、試合に出ることすらできなかった。そして2年目、ようやくコートに立てるはずだったが、ヘルニアを発症。2000年11月21日、ロサンゼルスの病院で手術を受けることになった。

「ひどい時は何をするにも痛かった」

成人式を迎えた頃の田臥は、ジョギングとジャンプなしのシュート練習しかできない状態だった。NBAへの道どころか、バスケットすらまともにできない。異国の地で、夢と現実のギャップに苦しむ日々が続いた。

JBL挑戦 〜日本での再起〜

2002年、田臥は日本に帰国。トヨタ自動車アルバルクに入団し、JBL(当時の日本バスケットボールリーグ)でプロキャリアをスタートさせた。

彼のスピードとクイックネス、試合を読む力は日本のリーグでも圧倒的だった。ルーキーながら新人王を獲得し、その実力を証明。だが、田臥の目標はあくまでNBAだった。

シーズン終了後、彼は再びアメリカへと渡った。次なる挑戦の舞台は、NBAのサマーリーグだった。

サマーリーグ 〜NBAへの足がかり〜

2003年7月、ダラス・マーベリックスの一員としてサマーリーグに参加。ここでのプレーがNBAスカウトの目に留まり、田臥にとって大きな転機となった。

サマーリーグとはいえ、対戦相手はNBA入りを狙う猛者ばかり。その中で田臥は、スピードと創造性を武器に戦い抜いた。特にトランジションオフェンスのキレは際立ち、現地メディアやスカウトの注目を集める存在となった。

この活躍が評価され、9月にはデンバー・ナゲッツと契約を結ぶことに成功した。ついに、NBAの扉が目の前まで開いた。

デンバー・ナゲッツとの契約 〜背番号13を背負って〜

ナゲッツとの契約は、最終ロスター入りを確約されたものではなかった。NBAチームのロスターは、開幕までに20人から15人(ベンチ入り12人+怪我の交代要員3人)に絞られる。田臥は、トレーニングキャンプとプレシーズンゲームで生き残る必要があった。

彼の背番号は「13」。これは高校1年時につけていた番号だった。アメリカの地で、新たな挑戦が始まった。

トレーニングキャンプ 〜本場での評価〜

キャンプでは、田臥は積極的に声を出し、チームメイトを動かしながらプレーした。ナゲッツのコーチ陣は、彼の視野の広さとスピードを高く評価し、現地メディアでも「意外にも良いプレーをしている」との声が上がるようになった。

さらに、地元記者の取材にも英語で自然に対応するなど、異国の環境にも適応しつつあった。だが、最終ロスター入りはそう簡単なものではない。ナゲッツは若手の成長株を多く抱えており、最終的に田臥は開幕ロスターから外れることになった。

それでもNBAへの道は続く

ナゲッツでの挑戦は終わったが、田臥のNBA挑戦は終わらなかった。彼はその後もアメリカに残り、Dリーグ(現Gリーグ)やサマーリーグでプレーを続けた。

そして2004年、彼はフェニックス・サンズと契約を結び、ついに日本人初のNBAプレーヤーとなる。

挫折と挑戦の繰り返し

田臥勇太のNBA挑戦は、決して順風満帆ではなかった。高校時代のスター選手も、アメリカでは無名の存在。言葉の壁、フィジカルの違い、怪我といった数々の試練が彼を襲った。

だが、彼は挑戦をやめなかった。日本人には無理と言われ続けても、田臥はNBAという夢を追い続けた。その結果、彼は日本バスケット界の歴史を変え、NBAのコートに立つことができた。

この物語は、田臥勇太という一人のプレーヤーが挑戦し続けた証であり、日本人がNBAでプレーする道を切り開いた瞬間だった。

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