ステフォン・マーブリー「自己中心的な選手」と言われた男の戦い、、、。

ステフォン・マーブリー:NBA史に刻まれた自己中心的な天才

キャリアのスタート:ウルブズでのデュオ

ステフォン・マーブリーのNBAキャリアは、1996年にミネソタ・ティンバーウルブズでスタートした。 当時のマーブリーは、ケビン・ガーネットとのデュオとして大きな期待を抱いていた。 ガーネットとは高校時代からの友人であり、ガーネットの万能性とマーブリーのスピード、スコアリング能力が絶妙に噛み合っていた。

しかし、この輝かしいコンビは長くは続かなかった。 1997年、ガーネットがウルブズと6年1億2600万ドルという超大型契約を結んだことで、状況は一変した。自分がガーネットほどの評価を得ていないことに嫉妬心を募らせ、そしてその相棒の陰に隠れることへの不満からマーブリーは自らウルブズを離れる決意をした。

ネッツでの失敗:キッドとの対比

ウルブズを去ったマーブリーは、1999年にニュージャージー・ネッツへトレードされた。 ネッツでは、ケリー・キトルズやキース・ヴァン・ホーン、ケニョン・マーティンといった若手とともにプレーした。自身はオールスターに選出されるだけのスタッツは残したが、チームの成績は一方向に伸びなかった。その後、2001年にマーブリーはネッツを離れ、フェニックス・サンズへ移籍することになる。

ネッツがマーブリーと交換で獲得したのが、ジェイソン・キッドだった。 キッドはそのわずか1年後に、ネッツをNBAファイナルへ導いた。 一方、マーブリーがサンズで迎えた2001-2002シーズンは、チームが14年ぶりにプレーオフ進出を逃すという結果に終わった。 この結果は、マーブリーがチームを不振に陥らせた責任を痛感することとなった。

マーブリーはサンズでのプレーオフ進出失敗に深い傷つき、NBAファイナルを観るすらことつらかったが、「それでも僕は見なければならなかった」と述べた。

サンズでの葛藤と失敗

フェニックス・サンズでは、ショーン・マリロンやアマレ・スタウダマイアーといった若手選手とともにプレーした。サンズは強豪ひしめくウエストで2002-2003シーズンに21勝12敗という好スタートを切った。「僕がパスを出すことでいかにチームが戦いやすくなるかがわかった。40点なんて取ろうと思えば取れるけれど、僕は20得点8アシストという数字で試合を制してみせる。相手を混乱させる質の良いパスを出すのさ」と語った。

マーブリーはオールスターに選ばれるなど、一時は成功した。チームリーダーとして大きな成長を思わせた。はずだったが、実際にはその後も彼の自己的な中心プレースタイルは変わらず、次第にチームで悪目立ちするようになった。

ニックスでのセルフィッシュ・コンビ

2004年、マーブリーは自分が幼い頃に憧れていたニューヨーク・ニックスへ移籍した。ニックスは、マーブリーが自身のキャリアを再び輝ける場所となるはずだったが、結果はそうはならなかった。ニックスでは自身と・同じく自己中心的なプレースタイルで知られるスティーブ・フランシスと“セルフィッシュ・コンビ”が誕生した。

が、2人とも個々の能力は高かったが、チームのためにプレーすることができず、機能するはずはなかった。

自己中心的な選手の象徴

ステフォン・マーブリーの才能には疑いの余地はない。

だが同時に自己中心的な性格とプレースタイルが原因で、チームの向上させるには至らなかった。ウルブズ 、サンズ、そしてニックスでの失敗で、マーブリーは「自己中心的な選手」の代表格として語られる存在となってしまった。

彼が持つスコアリング能力やコートビジョンは一級品だったが、それをチームのために活かすことができなかったことが、彼のキャリアにおける最大の課題だった。

時代が違えばその能力は、、、

ただし、時代によってはその評価は変わっていた可能性は否定できない。

1990年代後半から2000年代前半を全盛期として過ごしたマーブリーだが、そのころはまだPGにはスコアリングよりもゲームメイクに重きを置かれていた。

2010年代後半にはペース&スペースのスモールバスケが浸透し、スコアリング能力のあるPGが活躍し始める。

ステフォン・マーブリーに圧倒的な才能とスコアリング能力があることは否定できない。

ある意味では、時代を先取りした選手とも言えるマーブリーは、時代が違えば正真正銘の『スターブリー』となっていたかもしれない。

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