1990年代多くのセンターが活躍する中、2m8㎝とセンターとしては小柄ながらブロックを量産し、エネルギッシュなプレーでファンを魅了するセンター、それがアロンゾ・モーニングだった。
7回のオールスター、2回のディフェンシブ・プレーヤー・オブ・ザ・イヤー、2回のブロック王、そして2006年マイアミ・ヒートでチャンピオンに輝いている。
1992年のNBAドラフト、この年の1位指名、シャキール・オニールに続き、モーニングは2位でシャーロット・ホーネッツから指名された。
2年目のホーネッツのスター、“グランマ”ラリー・ジョンソンとプレーすることになったモーニングはすぐに活躍を見せる。
平均21.0得点、10.3リバウンド、そして3.5ブロックを記録し、創設4年目のホーネッツを球団史上初のプレーオフに導いた。
2年目のシーズンになるとモーニングは、早くもオールスターに選出される。
さらに1994年の世界選手権でのドリームチーム2にも選出。
しかしモーニングとラリー・ジョンソンが共にケガに苦しみ、2年目の1994年はプレーオフ進出を逃すことになる。
3年目の1995年はファーストラウンドで復帰したジョーダンのいるブルズに敗退した。
そのオフシーズン、モーニングの代理人はジョーダンやユーイングの代理人でもあるデビット・フォークは、ホーネッツ・ナンバーワンの選手はモーニングだと主張。
すでにラリー・ジョンソンに大きな契約を与えていたホーネッツが、モーニングと大きな大型契約を結ぶことは難しい状況にあった。
そしてシーズンオフに無償で出ていかれることを恐れたホーネッツは、モーニングをマイアミ・ヒートに放出し「フューチャー・ブルズ」はあっけなく崩壊した。
1998年には55勝を記録し、第3シードでプレーオフ進出を果たしたヒートだったが、ファーストラウンドの相手はニックス。
シリーズのゲーム4でモーニングとラリー・ジョンソンの乱闘が起こり、モーニングは最終のゲーム5を出場停止になり、ヒートはファーストラウンドで敗退し、姿を消した。
1999年、50試合の短縮シーズンでヒートはイースタントップとなる33勝を記録。
モーニングが最優秀守備選手賞とオールNBAファーストチームに選出され、第1シードでプレーオフ進出を果たす。
しかしファーストラウンドの相手は3年連続となるニューヨーク・ニックス。
試合はゲーム5までもつれた末、アラン・ヒューストンの逆転弾により、またしてもヒートはファーストラウンドで敗退した。
1999-2000年のシーズンもモーニングが再び最優秀守備選手賞とオールNBAセカンドチームに選出される活躍をする。
2000年のオフシーズンには、モーニングはシドニーで行われたオリンピックで金メダルを獲得した。
しかし帰国したモーニングに衝撃の事実が発覚する。
30歳のモーニングは腎臓疾患と診断された。
当時スパーズのショーン・エリオットも同じ病気に苦しめられていた。
それでもシーズン全休を発表していたモーニングだったが、シーズン最後の13試合に出場する不屈の闘志を見せる。
その後、引退復帰を繰り返し、2006年のシーズンはマイアミ・ヒートに在籍。
ヒートはウェイドとシャックが中心のチームでモーニングがいた頃とは全く違うチームとなっていた。
それでも平均20分という少ない出生時間ながら、シーズン平均で2.7ブロックを記録。
ヒートはNBAファイナルに進出し、ウェイドの覚醒によりマブスを撃破。
ゲーム6でモーニングは5つのブロックを記録するなど大活躍。
モーニングは36歳にして初めてNBAチャンピオンに輝いた。
そして2008年のシーズンを最後に、38歳のモーニングはNBAキャリアに幕を閉じた。
‘‘Intensity‘‘(強烈さ)アメリカの万人に好意的に受け入れられるわけではなかったが、「ZO」を評価するときによく使われる言葉だった。
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