光と影:ジョーダンとピッペンの対照的な人生
太陽のようなジョーダン
マイケル・ジョーダンとスコッティ・ピッペンは、まるで太陽と月のような存在だ。ジョーダンは当時の黒人家庭の中では比較的裕福な環境に生まれ育ち、NCAAの名門大学であるノースカロライナ大学で花形選手として活躍。その後、NBAのシカゴ・ブルズで伝説的なキャリアを築いた。
厳しい道のりを歩んだピッペン
一方、ピッペンの道のりは「厳しい」を通り越して「壮絶」と言っても過言ではない。南部アーカンソー州の田舎町、人口2500人のハンバーグで12人兄弟の末っ子として誕生。家はわずか2部屋しかなく、彼の家族は困難な状況に置かれていた。10歳年上の兄が学校で大ケガを負い、首から下が麻痺し、車椅子生活に。さらに父親も脳卒中を患い、右半身が麻痺して車椅子生活になったため、家族全体が大きな苦労を強いられた。
ピッペンの大学時代
そんな困難な状況の中で、ピッペンはNCAAの大学からの勧誘を受けることはなく、コーチの紹介でNAIA(小規模な4年制大学が所属するスポーツ連盟)のセントラル・アーカンソー大学に入学。そこで与えられた役割はチームマネージャーだった。しかし、ピッペンの才能は次第に注目されるようになり、シカゴ・ブルズのジェリー・クラウスGMが獲得に乗り出した。
プロ入りと私生活の波乱
ピッペンは1987年にプロ入りし、ガールフレンドのカレン・マッカラムとの間に男子をもうけ、翌年結婚したものの2年後に離婚。さらに、1987年から1993年までマッカラムとは別に関係を持っていた女性から訴えられ、ピッペンが妻子があることを隠し続け、ホテル代やガソリン代などを女性に払わせ、ピッペンは「今度払う」と言うばかりで一度も払ったためしがなかったという。
ピッペンのケチな一面
ピッペンはドケチで有名であり、レストランでのチップの払いも極端に渋いことから、「No Tippin’ Pippen」(チップを払わないピッペン)というニックネームを付けられることもあった。
長期契約へのこだわり
ピッペンは1991年のオフシーズンに7年1945万ドル(2億3675万円、年平均約3億2000万円/ 1ドル=115円)という長期契約を結んだ。代理人やブルズオーナーのジェリー・ラインズドーフから「そこまで長い契約に縛られたら後々後悔するぞ」と忠告を受けたにもかかわらず、ピッペンはこの契約にこだわった。その理由は、複数の障害を抱える家族のサポートを長期的に確保するためと、持病の腰痛など自身の身体がいつどうなるかわからないという不安からだった。
契約の影響とフロントとの対立
ピッペンの1991-92シーズンの年俸はリーグで上から16番目だったが、その後、長期契約が仇となり、ブルズ最終年の1997-98シーズンにはチーム6番目、リーグで122番目の年俸となった。オールスター選手であり、オールスターでMVPにも輝き、オールNBAチームにも選ばれるピッペンにとっては妥当ではない。皮肉にも、自身も参加したバルセロナ・オリンピックのドリームチームで、NBAの人気が世界中で高まり、選手の年棒が高騰したのだ。ピッペンは契約の見直しを繰り返し要求したが、フロントは応じず、これがフロント陣との軋轢を生み出した。また、手術を遅らせることによる出場ボイコットやトレード要求にまで発展した。
対照的な人生
ジョーダンとピッペンの人生は、対照的でありながらも、共にNBAの歴史に残る偉大な選手であることに変わりはない。ジョーダンは光輝く太陽のように、常にスポットライトを浴び続け、ピッペンは月のようにその光の裏で苦難を乗り越えながらも存在感を発揮した。
コメント